ニシエヒガシエ

140文字に納まらないときに使う場所

コウエイトライとの出会い

最近知り合った方々には、

最初から「障害レースと戸田厩舎を応援している者です」と自己紹介してるので、

それぞれを応援するようになったきっかけを話すことはそうそう無い。

ということで、ブログに書いてみることにした。

 

今に至るまでの興味の対象は、

コウエイトライ→障害レース→金子光希J→穂苅寿彦(元)J→戸田厩舎→一口馬主

という感じ。

字面だけでは繋がっているのかいないのか…という感じだけど、

わたしの中ではちゃんとした流れがあって、今がある。

 

前置きが長くなったが、今回はコウエイトライの話。

 

就職したての2005年。

わたしは土日完全に暇を持て余していた。

大学の時のようにバイトがあるわけでもなく、

一緒に遊べるような同僚もいないし、学生時代の友達はそう毎週は誘えない。

そんなときに何となく見始めたのが、小学生の時に見ていた競馬中継だった。

 

今は亡き父親が競馬好き(馬券好きというべきか)で、

小学生までは毎週のように見ていたけど、

中高大と部活やバイトで忙しく、すっかりご無沙汰になっていた。

 

2005年といえば、ディープインパクト3冠馬に輝いた年。

ほぼ初心者状態のわたしでも、その強さはテレビを見ていれば分かる。

そして有馬記念まで見て勝負の厳しさも分かった。

 

しばらく中継を見る日々が続き、

中継以外にも、競馬についてもっと知りたい!と思うようになったが、

何せ知識が無さ過ぎて、何から見たらいいのか分からない。

(恥ずかしながら、JRAのサイトの存在すら知らなかった)

 

インターネットにあふれる玉石混交の情報の中で知ったのが、

優駿たちの蹄跡」という個人の方が運営されているデータベースサイト。

(現在も毎日更新されてます)

そこに掲載されている馬たちのデータを片っ端から見ていく中で、

出会ったのが「コウエイトライ」というわけなのである。

 

2006年当時のコウエイトライは、12番人気の小倉SJで重賞初制覇を果たしたのを皮切りに、

阪神JSと東京AJをともにレコードで勝ち、1年でJ重賞3勝を挙げた。

JRA賞の最優秀4歳上牝馬で票が入ったのも納得である。

 

2ちゃんねるやら何やらで雑多に知識を身に着けていくうち、

九州でも馬産が行われているが、頭数としては極めて少ないのも何となく分かっていた。

九州産馬牝馬で、こんなに活躍するなんてすごい!」

とにかく情報の手に入れ方が分からなかった当時、

その成績の文字だけで本当にキラキラと輝いて見えた。

 

2007年の京都HJは、テレビの前で正座をして見た。

今のわたしなら迷わず遠征を手配しているところだが、

当時のわたしは「遠征」という選択肢に気付いていなかった。

1年7ヶ月の休み明け、斤量差5kgのテイエムドラゴンとの完全なるマッチレース。

2着に敗れはしたが、本当に心の奥から震えるほど感動した。

 

障害レースを、いつかこの目で直接見てみたい。

コウエイトライを現地で応援してみたい。

それがわたしの願いになっていた。

 

社会人4年目を迎えた、2008年4月。

わたしは実家を出て、今も住むアパートで1人暮らしを始めた。

相変わらず土日は適当に過ごしていたが、ある日いきなり気が付いた。

「土日に競馬場に出かけても、誰にも何も言われないんだ!」

 

競馬場への行き方や食べ物について調べているうちに、

コウエイトライがJ重賞の東京HJに出走することを知ったわたし。

これは行くしかない!といよいよ初めての東京競馬場行きを実行に移した。

 

ドキドキしながらパドックに出走馬が登場するのを待ち、

ついに目の前に現れたコウエイトライ

パドックを大きく周回するその姿は、他の牡馬たちよりも力強く見えた。

 

当時の写真は、ガラケーで撮ったしょぼい1枚しか残っていない。

一眼レフはもちろん持っていなかったし、

持っていたコンデジは、家に忘れてしまったのだ。

これは今でも思い出すたびに後悔していることである。

 

予習通りに、内馬場の生垣障害の側で見守ったレース。

ちょうどその飛越で2頭の落馬があり、

人馬ともに危険が及ぶ可能性があること、障害レースの過酷さも知った。

 

でも、それ以上に現地で見るレースの魅力に心を奪われた。

飛越の迫力、コウエイトライテイエムトッパズレの駆け引き、

テイエムエースが最終障害飛越後に見せた末脚の鋭さ、

そして父ゴーカイから受け継いだ能力の片りんを見せたオープンガーデン!

コウエイトライは人気に応えられず6着に敗れはしたが、

初めて現地でレースを見られたことにとても満足していた。

 

その後、小倉SJと阪神JSは行けなかったものの、

11月の京都HJでついに初めての京都遠征を実行。

(このときは遠征のノウハウが全く無くて、往復ぷらっとこだまで行った。辛かった←)

J・GⅡを勝てるチャンスがついに来た!と思っていたが、

年末の中山大障害も勝利するキングジョイに差されての2着。

本当に悔しかった…。

(ちなみにこのとき、パドックが良く見えたという理由で、ミヤビペルセウス複勝をちょっと買っていた。鞍上と厩舎が後々自分に深くかかわってくることは、当時のわたしは知る由もない)

 

年明け初戦は、春麗JSだと応援に行きやすくていいな!

レース後はそんなことを考えていたが、コウエイトライはこの後脚部不安を発症。

ちゃんと使い方を覚えたJRAのサイトで、

いつ「放牧」の文字が消えるのかと毎週のようにチェックする日々が、

この後1年以上続くことになるのだった。

 

続く。