ニシエヒガシエ

140文字に納まらないときに使う場所

2012年6月16日

穂苅さんの最後の騎乗となったレースから、明日で6年が経つ。

すごくあっという間だったと感じるときもあれば、

とてつもなく前の出来事のように感じることもある。

でも、自分の一部がまだそこに置きっぱなしになっていて、

それは決して戻ってくることがないという感覚はいつでも変わらない。

 

今も競馬をすごく楽しんでいる。

応援馬が勝ったら嬉しい。

友達の応援する騎手や馬が勝ったら同じくらい嬉しい。

でも、その楽しさや嬉しさは、

穂苅さんが現役のジョッキーだったときとはちょっとずつ違っている。

 

ひょんなことがきっかけで、これから注目してみよう!

と思ったのが2010年の1月。

 

それから最後のレースの2年半までは本当に濃密で、それでいてあっという間だった。

横断幕を作ったのが同じ年の4月。

初めてパドックに幕出しをしたレースで勝ってくれて、

ウイナでサインをいただけたことが本当に嬉しかった。

 

横断幕を出して、パドックで写真を撮って、

「頑張ってください」と小声でエールを送る。

応援馬券を買って、直線でいい位置にいたらひたすら絶叫!

勝ったらウイナで大盛り上がり!

いつも最後にお願いして写真を撮らせていただいたけど、

緊張しすぎてちゃんと話せたことは、結局1回も無かった。

 

いつ「その日」が来るかなんて、想像したこともなかったけど、

いつか穂苅さんが自分の意志でステッキを置く「その日」まで、

そうやって応援が出来る日々がずっと続くものだと思っていた。

 

でも、そんな日々の終わりはあまりにも早くて突然だった。

2012年6月16日。

今よりも2週間長かった、夏の福島開催の開幕日。

わたしは福島競馬場にいた。

 

その日の穂苅さんの騎乗は障害1鞍。

騎乗馬は新開厩舎のハナサクテーラーという障害2戦目の馬だった。

新開先生は穂苅さんが所属していた和田正道厩舎の出身で、

その縁からか普段の調教にもよく騎乗していた。

いずれ障害馬も作ってくれないかな、と楽しみにしていたので、

この馬が入障すると知ったときは嬉しかったのを今でもよく覚えている。

 

福島でも変わらずに横断幕を出して、

パドックで写真を撮り、地下馬道に向かう姿を見送る。

小雨が降ってきていたのが心配だったけど、

無事に戻ってきてくれるだろうと思っていた。

 

そしてレース。

スタート直後から飛び出して、最初の置障害を先頭で飛越。

それがわたしが撮った穂苅さんの最後のジョッキーとしての姿になった。

徐々に脚が鈍ってきた向正面の連続障害の飛越で落馬して、

巻き込まれた金子Jも落馬。

 

向正面なので様子が全く分からなかったけど、

それまで落馬しても大きなケガは無かった穂苅さんだから、

きっと今日も大丈夫…そう信じてウイナに向かった。

勝ち馬の口取りを普通に撮って、

検量室前を行き来する他のジョッキーの様子をずっと見ていた。

 

以前中山で落馬してしまったときも、

ずっと待っていたら他のジョッキーと一緒に自分で歩いて出てきてくれた。

だから、今日もきっとちょっと苦笑いしながら出てきてくれる。

いつもご主人を応援しに来ていたある騎手の奥様も、

「ホカちゃんは骨が強いから~」ってそのとき言ってた。

だから大丈夫!

自分に言い聞かせるように、それまでのいろんな出来事が浮かんできた。

 

昼休みの出来事だから、実際そんな時間は経っていなかったかもしれない。

でも、かなりの時間を待ったような気がしたとき、

片付けをしていた山本Jと江田勇亮Jの会話が聴こえてきた。

「出血がひどくてレントゲンが撮れないから、病院に行くって」

『蹴られたの?別の馬?』

「いや、自分の馬…」

 

続きを聴くことが出来なくて、その場を離れてしまった。

その後は競馬どころではなく、ひたすら無事を祈ることしかできなかった。

関係者の方がTwitterに情報を書いていないか、検索して探したりもした。

 

そして第1報が出たのは確か15時とか16時ごろだったと思う。

「前頭部裂傷で福島市内の病院に搬送」

外傷だけで済んだのかな…?それなら傷が治ったら復帰できる…?

来週からすぐ騎乗、とはならないだろうけど、ひとまずよかった…。

Twitterのフォロワーさんたちも安心してくれて、

雨が上がって晴れ間も見える中、心も軽く競馬場から駅まで歩いて帰った。

 

ところが、駅に着いて再びTwitterを開いたとき、わたしはどん底まで叩き落された。

フォロワーさんがRTしたスポーツ紙のツイート、

「福島4Rで落馬した穂苅寿彦騎手は、検査の結果右眼球破裂、前頭骨骨折、外傷性くも膜下出血の疑いと診断された。なお、CT検査の結果脳には異常が無かった」

 

……は??

 

文字は目に入ってくるけれど、頭が現実を受け入れられない。

意味が分からない。

これは多分夢で、寝て目が覚めたら現実に戻れるよ…。

そうだ、夢だ、夢に違いない…。

 

そう思って新幹線で眠ってみたけれど、

疲れ切っているのになぜか10分もしないうちに目が覚めてしまう。

夢じゃない、これは現実なんだよ、現実を見ろ―

そうやって誰かに言われている気がした。

 

何とか家に帰って、途中でバッテリーが切れた携帯電話を充電した。

Twitterを起動して、わたし宛てにリプライがたくさん来ているのに気が付いたとき、

それまで我慢していた感情のフタが開くのが自分でも分かった。

もう自分では止められないくらい、泣いて泣いてひたすら泣いて。

疲れ果てていつの間にか寝ていても、やっぱりすぐに起きてしまう。

泣いて寝て起きて泣いて…の繰り返し。

 

途中で穂苅さんが復帰している夢も、騎手を引退している夢も見た。

復帰を信じて待てるものなのか、

新しい道を応援すればいいのか、

ニュースの文字だけでは全然分からなくて、

かといって現実を突きつけられるのが怖くて、「眼球破裂」の検索さえできなかった。

 

そして次の日。

Twitterでやり取りしているうちに、

フォロワーさんと「千羽鶴を作って贈ろう」という話になった。

泣いて過ごすより、復帰を信じて待つしかない。

自分の中でも覚悟が決まった瞬間だった。

 

当時からの友達とは今でも話に出るけれど、

それからは怒涛の2週間だった。

北は仙台から南は京都まで、あちこちから折り鶴が集まり、

それを次の週のパークウインズ東京でひたすら繋いだ。

完成させた千羽鶴は、翌週の福島で見舞いに行くジョッキーを探して託すことになった。

 

そして、さらに1週間後の福島競馬場

1Rの前に検量室前に現れた石神Jに話を聞くと、

「明日蓑島が行くみたいですよ」とのこと!

4Rのあと、蓑島Jが現れるのをひたすら待って声掛け。

事情を話したところ、快くOKしていただけた。

(蓑島J、その節は本当にありがとうございました)

 

翌日の月曜日は、仕事をしながら「今頃蓑島Jがお見舞いに行ってるころかな」

とか考えたりしていた。

気持ち次第で回復具合も違うだろうから、

少しでも励みになれていたらいいなとも思っていた。

 

その後、秋ごろに調教に復帰したという知らせはあったものの、

レースの復帰予定の話はなく、代わりに新開厩舎所属になるというニュースが。

当時、どこかの厩舎所属になった騎手がその後まもなく引退し、

その厩舎で助手になるということが相次いでいたので、

わたしの中でも何となく覚悟が出来つつあった。

 

そして、「その日」はあっさりやってきた。

穂苅寿彦騎手が引退」

短いニュースリリースで、わたしの応援の日々は幕を閉じた。

 

気が付けば、穂苅さんを応援していた時間よりも

そうでない時間の方が長くなってしまった。

中山が苦手で、新潟が滅法得意だった穂苅さん。

中京コースが新装されて同じような左回りの置障害になって、

第3場での開催が増えた今、

もし現役でいたらリーディング上位になれたんじゃないかな~なんて、

時々考えたりもしてしまう。

 

騎手として活躍する姿をもっと見ていたかったけれど、

最後の勝利も最後の騎乗も現地で見られたから、

そのことについては悔いは残っていない。

 

思い出すままに振り返ってみたけど、

横断幕1つとっても、書ききれなかったエピソードがたくさんある。

ケガが分かったとき、千羽鶴を作ったとき、引退が発表されたとき、

常に励ましてくれた友人たちがいるからこそ、

わたしは今でも競馬を辞めずにいられるのだと思う。

 

戸田厩舎を応援するようになったのは、穂苅さんが障害馬の主戦だったから。

一口馬主を始めたのも、いつか自分の出資馬に騎乗してほしかったから。

応援した経験が、今の自分にもたくさん繋がっている。

 

あと2時間弱でやってくる6月16日。

毎年この日が巡ってくると、2012年の悲しい出来事を思い出す。

でも同時に、友人の暖かさや繋がった縁のありがたさも改めて感じる。

 

明日も東京競馬場で障害未勝利戦がある。

いつものように、全人馬の無事を祈りながら応援したい。